大学という職場に居て、そこそこ頻繁に発生するのが「配慮」の問題です。例えば、足の不自由な方への車椅子の貸出や、聴覚障がいのある方用の補聴器等機器の整備、視覚障がいの方のための資料拡大機器の整備等があります。また、公共施設としての役割も持ちますので、ユニバーサルトイレの提供や、障がい者用駐車場の設置も必要です。
ユニバーサルトイレや駐車場、車椅子等は、個人差への対応を然程重要視しない案件ですので整備もしやすいのですが、補聴器や視覚補助器具等は、個人差が大きく「これがあれば、ある程度対応可能」というモノではないので、なかなか大変だったりします。それでも、個別の条件さえ的確に把握できれば、対応できる「モノ」を購入することですみますので、まだ解りやすいと言えます。
一方、結構難しいというかやるせないというか…「経済的支援」の話はなかなか難しかったりします。学校によって、支援対象の選抜方法はそれぞれだと思います。先ずは「家庭の総収入」等を基準に選抜する方法。恐らくこれが最も一般的だと思いますが、そう「総収入」の考え方が千差万別だと思われるので、実はこの方法も画一的ではありません。後、少なからず「障がい者枠」を設定しているような学校もあります。
例えば、ご兄弟がそれぞれ別の大学に進学しておられて、一方の大学は単純に「総収入で選抜」の取扱いをしていて、もう一方の大学は「障がい者枠」の中で選抜を行っているような場合「一方は採用されて、もう一方は採用されない」という事態が発生してしまいます。ご両親にしてみれば「同じ書類を出しているのに…」ということもあり、「いろいろ生活に支障があって、援助が無いと困るんです。」というお申し出を受けることもあるのですが、支障や困窮の具体的内容は異なるのだろうと思いますが、特に障がいを抱えていないご家庭でも、経済的にはかなり逼迫している状況にあるということも十分あり得るので、必ずしも「障がい者優先」にはならないのです。
障がいそのものに対する支援は、最大限配慮を要するものだということは、当然のこととして共通認識されていると思いますが、間接的(という理解で良いのかどうかも若干疑問ですが…)に起こる経済的困窮への支援と、障がいの無いご家庭が抱えうる経済的困窮に対する支援を同じ土俵で議論することの難しさ、もどかしさを感じる一方、それらを「別の議論」として割り切る(例えば、別々に予算を配分し、別々に選抜を行う等)ことにも、違和感があります。
※年度にもよるのだろうと思いますが、「困窮度の高い方に支援が届かず、比較的困窮度の低い方に支援が行われる」という事態の発生も容易に想像できるからです。
てなことを経験していると、「合理的配慮」と言われることばの「合理的」ってなんなのかしら?と悩んでしまったりしています。