まい うぃる(akarui isho)

いろいろ書いておこうかな~?と…

遂に・・・母の最期

退院後2週間もしないうちに、また施設から電話が入ります。「体調が悪いようですので、いまから病院に向かいます。結果は、後ほどご連絡します。」流石に今回は付添を申し出るようなことはしませんでした。

夕方、施設から報告が入ります。「今回も入院することになりました。後日病院からご連絡があるかもしれません。」・・・こういうの、何回繰り返しても馴れないわぁ。

 

数日後、病院から連絡が入ります。「お母様ですが、大分容態が悪くなっておられます。早目に病院にお越しください。命に関わるお話しになります。」確か、そんな内容の電話だったと思います。「遂に・・・来たか・・・」余命宣言を聞いた時から覚悟はしていた私は、比較的冷静に受け止めることができました。

取り合えず、兄に状況を連絡すると「え?」と絶句。そう、兄には余命宣言の話しはしていなかったのです、兄にすれば青天の霹靂だったと思います。「そんなに悪いのか?急に?」これも、そう。申し訳無いけど、日々の出来事をすべて報告している訳ではないから、兄には急な話だったんだと思います。姉なんか、もっとそうなんだろうなぁ。「僕も一緒に行くよ。」と兄。翌日か翌々日だったと思いますが、兄弟で病院に向かいました。

「前回、弟さんには説明しましたが、救急搬送の時には腫瘍が見られたのですが、退院される時には消えていました。正確に言うと小さくなって隠れていたと言うことだと思います。今回は、それがまた大きくなっている状態です。」「癌の再発ですか?」と私が聞くと「腫瘍が悪性か良性かは、生体検査をしないと解りません。ただ、生体検査は体に刃を入れることになりますので、お母様の身体に少なからずダメージを与えます。後、仮に悪性だったとしても、治療方法はありません。」「そんなに悪いんですか?」と兄。「いえ。腫瘍そのものがどうかということではなく、最初の摘出手術でかなり広範囲を切除しているので、もう切除は不可能なのです。また、その切除術にお母様が耐えられるとは思えません。抗がん剤治療も同じです。その治療に耐えられないと思います。」私は、母が唯一「勘弁して欲しい」と弱音を吐いた治療が、抗がん剤治療だったことを思い出していました。「どうなるのですか?」私が聞くと、「現状は、腫瘍から出血があって、その出血を止めることができません。輸血で命をつなぐことはできますが、輸血用の血液も無尽蔵ではないので、こういってはなんですが、助かる命に使わなといけませんので、いつまでも輸血を続けることはできません。」正論ですよね。正論だけれども・・・「どれくらい、もつんですか?」それしか言えなかった。「この後、輸血を行ったとして、もって2週間かと。それまでに、ご家族の方は、お別れをなさってください。ただし、コロナ禍ですので1日2組、1組10~15分程度です。」

姉、母のお友達のAさんに連絡し、翌日からの面会の順番を決めます。翌日の午前中に私の家族。午後、兄家族。その翌日の午後に姉家族。3日後にAさんとなりました。

 

翌日、母の病室を訪ねて驚きました。とても元気そうなのです。血色も良く、こちらの話にも大きく首を振って反応を見せるではありませんか。ただ、本人も苦笑い(の表情も見て取れました)していましたが、声が出ないのと、目が開けられない様でした。言いたいことがたくさんありそうでしたが、こちらの問いかけに、頷くか首を振るかで答えるしかできないようで「かなんなぁ?」と私が聞くと、顔をしかめて笑っていました。ひとしきり会話(?)を終え、娘、妻、私と1人づつ握手をし「後から、兄貴と姉貴、Aさんも来るから・・・な。」と最後の挨拶です。本当は「頑張れ。」とか「ちゃんと挨拶しぃや。」とか言いたかったのですが、それを強いるのも、違うかなと思い、言葉を飲み込みました。

兄、姉と面会が終わり、翌日がAさんの番という2日目の夜、病院から電話が入ります。「お母様、危篤状態です。すぐに来てください。」家を飛び出し、車で病院に向かう車の中で、「Aさんには挨拶せなあかんやろ!」と、念仏の様に唱えていました。